
しばらく寝ますか

もう飽きたのネコの貯金箱にチャレンジしてます


火鉢をちょいちょい


夜ごはんまぁ〜だ〜
夜ごはんを食べ、ねむねむのしゅしゅが部屋に運ばれて来ました
1年前の今日

お風呂場の中にいました
何かの本当の価値をワンダフふぉ!?は教えてくれた。こんなことをいわれたいですね。
しばらく寝ますか
もう飽きたのネコの貯金箱にチャレンジしてます
火鉢をちょいちょい
夜ごはんまぁ〜だ〜
夜ごはんを食べ、ねむねむのしゅしゅが部屋に運ばれて来ました
1年前の今日
お風呂場の中にいました
しかし、「秘密の恋人」は慰めにならない。
多少は期待している分、失望もまた大きい。
「この世で一番愛している」はずのに、焼香とか法事とか、公的な場には彼女は現れない。
相変わらずメールと電話だけ。
結局、他人であり、別人であり、私とはなんの関係もなく生きている人なんだな、と分離感を強くする。
ましてや赤の他人の無神経さが勘に触ることこの上ない。
特に、メール・SNS関連がひどかった。
弔事に関するネットマナーというものが、まだこの日本に確立されていないからだろう。
動物が驚いているスタンプ一個送ってくる奴、泣き顔の絵文字だらけのメール、何年も連絡もないのに人の不幸にだけ過剰反応する奴、自分のペットロスと同列に並べ「悲しみを分かち合おう」とする奴、一週間ごとに「もう元気になった?」と聞いてくる奴、「うちの交通事故死のほうがもっとひどかった」とアピールする奴、・・・数え上げればきりがない。
アラフォー以上の大人が平気でこういう対応をしてくる。
毎日のように。
自分もまた過去に多々失礼を働いたことはあると思うけど、ここまで無神経な人間ばかりとは・・・。
つくづく辟易した。
私は無宗教なので、宗教的な言葉も慰めにならない。
彼女は私に言わせればかなり信心深くて、49日までは魂が浮遊して見守っているから話しかけろと言ったりしていたが、じゃあ死んだ魂は私たちの排泄や性行為なども天井からじっと見ているのか?
現世の人間が見られてもいいと思う時だけ、都合よく眺めていてくれるのか。
馬鹿にするのもいい加減にしろって思う。
イスラム圏のことはもとより、普段は他人の宗教観を極力気にしないようにしているが、日本人の大半が本気でそんな迷信に淫しているとしたら、私と気が合う人間なんてどこにもいないだろう。
この「世間」との温度差。
俗世に通じる窓である「テレビ」の笑い声も、勘に触って仕方がない。
彼女の部屋―、それは今まで私のなかのある人格が必要としていた「ホーム」だったはずなのに、この汚らわしい開口部がある限り、全然そうではないことに気付く。
ここに棲み、「私とは何の関係もない」、「呆れるほど現世的な」家主も、また。
要は私が嫌がろうが、食欲がなかろうが、自分の見たいものを見て、食いたいものを食う女だった。
そして私も自分の「ムード(気分)」だけが最重要で、波長が合わなくなれば容赦なく切り捨てていくだけなのだ。
私は勝手に傷つき孤独になる。
なる、というより今までもそうだったことに気付く。
彼女の部屋で、唯一、心慰められるものは、自分の携帯で見られる「青空文庫」だった。
(この部屋には一冊も本がない。いや一冊、仕事だか金儲けだかに成功した俺、みたいなノウハウ本があったか・・・。なぜ「彼ら」は年収が高いことを誇りに思うのか?私は何故こういう人種を心底憎むのか?)
特に、室生犀星の「忘春詩集」と中勘助の「銀の匙」。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001799/files/56638_61335.html
http://www.aozora.gr.jp/cards/001763/files/56565_58085.html
犀星は「豹太郎」という「キラキラネーム」をつけた長男を生後13カ月で亡くしている。
ある日、龍之介、福士幸次郎、多田不二が犀星宅を訪ね合わせて雑談していたおり、幸次郎がひょうひょうとした口調で「そりゃあ、犀星君、豹太郎なんて妙な名前を付けるから早死したんだよ」といったところ、犀星は突然真青になって、やにわに火鉢から鉄瓶を掴んで立ち上がり、庭石めがけてなげつけ、恐ろしい見幕で幸次郎を睨めつけ「君帰ってくれ」と怒鳴りつけた。「そのあとしばらくは古い木彫面のやうなかたい表情の室生さんの顔と、人の好い福士さんの困惑しきつた青白な顔とが私の脳裏にこびりついてはなれなかつた」(多田不二)
もし、自分の家に彼女が居候していたのだったら、私は百回くらい「君帰ってくれ」と怒鳴りつけていたんじゃないだろうか。
そして、永遠におしまい、思い出しもしないのか?
後から自分の「気分」が変わった時にだけ、後悔するのか?
そんなことは分からないけど、「消えろ」と念じれば手品のように一瞬にして消える存在に対し、感情の投資をするのは無駄だということだけは分かる。
期待しないことだ、とりわけ「通じ合う心」とか「永続する情熱」とかそういうものを信じないこと。
「代理家族」とか「自由な関係」とか「別の居場所」などというものも。
「ここではないどこか」「自分ではない私」も。
そして、今年の海。
思春期以来、恋人と過ごす「親密な時間」にやたらと価値を置いていた私だが、もう「ふたりきり」を必要としなくなる。
海で泳ぐ私たちを日傘をさした母が砂浜から見ている。
無事を知らせるべく、時々手を振る、子供の頃の夏休みのように。
ラピスラズリの欠片のようなソラスズメダイを海底に見つけると、私と彼女は無邪気に喜んで「ここに居たよ」と教えあう。
頭鳴が酷い私は、波の音がそれをかき消してくれる時だけが幸せだ。
今欲しいのはそれだけ、海と太陽と追憶の詩情。
彼女が旅館で母の肩を揉んだりしてくれたので、私はお返しに彼女の手をマッサージする。
私は人に触るのも触られるのも苦手で、今までそんなこと誰にもしたことがなかった。
死を契機に露呈した亀裂を「古い家族」が埋めて、新しい関係が始まる。
もしかしたら、これを最後に私は恋人が要らなくなるかもしれない。
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